名もなき詩

塾長のひとりごと
Vol.2
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この塾のはじまり(3)
開校して二年目から黒字転換しまして、幸運なことにその後ずっと健全経営しています。


最初の3年間は父親の仕事を手伝っていましたが、4年目に会社を作り独立することを決心しました。


開校当時、多くの友人に相談しましたが、残念ながら一人として塾を開校することに賛成してくれませんでした。


「受験戦争を激化させるつもりか。」


「東京ならともかく、山形ではうまくいくわけない。」


「勉強は自分でやるものだ、塾なんて必要ない。」


私は自分の信念に基づいて「学校教育ではできない何か」を求めて、塾を開くのだと彼らに説明しました。


私の住む天童には、かつて「格知学舎」という塾がありました。


私はその地を訪れ、歴史を知る機会を持つことが出来ました。


偉大な先人がなしとげた人創り・・・自分も格知学舎や松下村塾のような素晴らしい塾を創ってみたい。


そして様々な子ども達の中に眠る才能の開花に協力したい。


それが結局は豊かな街づくり、素晴らしい街づくりにつながるのではないかと考えました。


私は彼らに言いました。


「自分に出来るかどうかはわからないが、最終的に求めているのは受験勉強という題材を用いた子ども達の人間的な成長であり、たとえるなら高校野球の監督のようなものだと思っている。


しかし、学習塾であるから、そのことを表だって目標とするわけではない。


なぜなら『人間的成長を求める塾』と宣伝しても生徒が集まるとも思えないからだ。


ましてや自分自身まだまだ未熟で、どのようにすればそのような塾になるのかもわからない。


だが、自分は一流ではないかもしれないが、一流を目指したいという情熱は誰にも負けないつもりだ。


そして、生徒達と一緒に大人になっていきたいと思う。


一生懸命やっていい塾にするつもりだから、どのような塾になるかは結果を見てから判断してほしい」と。


塾名を「白門ゼミナール」としたのは、学歴主義の最高峰が「赤門」と呼ばれる東大であると考えた場合、それとは別の山を目指していきたいという気持ちからです。


誤解を招くといけませんので説明いたしますが、私は東大を否定しているのではなく、「学力+α」を求めたいと思っているのです。


どんなに優秀な頭脳も使い方を間違えれば、オウム真理教の「地下鉄サリン事件」のようになりかねないからです。


現在、教鞭をとっている講師は全員、うちの塾の卒業生ばかりになりました。


それから数年が経過しましたが、「理想の塾創り」はまだ途中です。


しかし、合格体験談を読むと何人かの生徒達が、「この塾で精神的に成長した」と言ってくれるようになりました。


前出の友人たちも、最近では「君はよくやっている」「自分の子どもを頼みたい」とみんな肯定的に変わってきてくれるようになりました。

(おわり)
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この塾のはじまり(2)
開校して一年目は、中三が2名、中二が4名でスタートしました。


とにかく教室が広く感じられたものです。


他の学年は余裕がなかったので受け入れないことにしていました。


なにせ中三が2名ですから、ひとり休むとマンツーマンになります。


そのため、一番小さい教室しか使ったことがありませんでした。


「早く大きい教室を使ってみたい。」そんな風に思っていました。


その時中三で通っていたOさん。


最初の中間テストでいきなり自己ベスト更新の6番になり、電話口で「うふふふ」と、とても喜んでくれていたのを思い出します。


そして、夏から友達のIさんやNさんを連れてきてくれて。


最終的には卒業時6名になりました。


そして全員志望校に合格してくれました。 


翌年、春期講習で3時間×16日間というむ講習を企画したところ、中三の人数があっという間に18名となり驚きました。


はじめて大教室を使ったわけですが、突然急増したのでわけがわかりませんでした。


そうこうしている間に教室がパンク状態となり、やむなく中三の募集を取りやめたところ、次から次へと入会希望者が現れて・・・。



最初の2〜3人は「仕方ないな」くらいですんだのですが、10人目を越えたあたりから悔しさがにじみ出てきました。


そして、15人目を断ったときは、とても悲しかったです。


(つづく)
この塾のはじまり(1)
かつて、東京で塾の講師をしていました。


その教室の副塾長というポストにおりましたが、実家が会社を経営しており、「後継ぎだから戻って来い」と言われ、山形に里帰りしました。


しばらくは父親の会社を手伝っていました。


ある時知り合いの方から「自分の中学三年生になる娘を教えてくれないか?」と頼まれ、ボランティアのつもりで自宅の二階で教えておりました。


教えていましたら、それを聞きつけた人たちがまた子ども達を連れてきて・・・というふうに増え、いつの間にか6名ほどになっていました。


最初は「週一回数学だけ」という約束で教えていたのですが、「英語や社会も教えてほしい」と頼まれ、気がついたときには、週3回教えていました。


自分としては「ちょっとでも手助けになれば」という気持ちでやっていたのですが、後で考えるとそれがよくなかったと思います。


そんなとき、とある模擬テストを受けることを勧めたのですが、これがひどいものでした。


なにしろ、テスト会場でお菓子を食べたり、ゲームをしたりする生徒がいたというのですから・・・真剣味のかけらも無いテストでした。


さらに、それは模造紙に印刷されており、志望校判定は手書きで「頑張りましょう」の一言。


平均点や塾内順位、偏差値すらありませんでした。


私はあまりのいいかげんさに、「このテストはひどい。3,000円の価値が無い。」とその塾にどなりこみにいったくらいです。


今はもうその塾はありません。


しかし、「そんな塾が成り立つのか」と私は地元の子どもたちが正直かわいそうになりました。


その年の受験が終わり合格発表がありましたが、六人のうち二人が不合格でした。


二人とも覚悟の受験でしたが、私としては少なからずショックを受けました。


山形の受験についての知識が不足していたこと。


そして、片手間に教えていたということが結果的に良くなかったと思います。


その年、その中学は全体的にも良くなかったようです。


数学も社会も非常に遅れており、とくに社会は中3で歴史をやっていました。
(現在はカリキュラムが変わって、中三で歴史をやっていますが、以前は中二で歴史が完結していました。)


二学期中間の公民のテスト範囲は実に100ページ以上もありました。


学校の先生はまともに授業をせず、塾もとんでもない塾が成り立っている。


こんな環境ではいい結果が出るわけはありません。


そんなある日、私の先輩がパラグライダー中の事故で亡くなりました。


その方はやさしく誰からも愛される人柄で、お菓子屋さんの2代目でした。


その人の家に線香をあげた帰り、私はその人の家から自宅まで6時間かけて歩いて考えました。


「どんなに素晴らしい人も亡くなってしまう。今、やりたいこと、やるべきことをやらなければいつまでもできない。」


それから1年後、私は周囲の反対を押し切って塾をひらきました。


成功や失敗は考えませんでした。


「自分のやりたいようにやりたい。」


自分の信念にしたがって行動したのです。


(つづく)
この塾の始まり(続)
かつて塾を始めた頃は、成績の良くない子がたくさん来てました。


英単語をたった10個覚えるのに2時間もかかる生徒もいました。


宿題を出しても答えの丸写しか、もしくは、ほとんど白紙状態。


遅刻は日常茶飯事、場合によってはサボりも平気な連中もいました。


そういう生徒たちにルールを教え込ませることは困難を極めました。


特に、「負け犬根性」はいくら言ってもなかなか直りません。


一度身についてしまった習性は直すのに、倍以上の労力が必要となるからです。


しかし、めげずに一生懸命教えていると、少しずつ私の言うことを信じてくれる生徒が現れ。


それが、2人、3人と増えるにしたがって教室のまとまりのようなものが生まれ始め。


やがて、爆発的なエネルギーをもつ流れへと変化したと思います。


いったん信頼関係が築けると、言うことを聞いてくれるようになりました。


とにかく、「できるまでやる。わかるまでやる。」を合言葉に、徹底して時間を気にせず教えていました。


成績の良くない生徒は自分でエネルギーを出しません。


また、深く考えることもできません。


そういう訓練を受けていないからです。


さらに、勉強に関して間違った考え方を持っている場合があります。


それらを矯正し、正しい考え方、正しい方法を短期間に教え込むにはスパルタしかないと思っていました。(今は違った方法で教えていますが、今もスパルタはすばらしい指導方法の一つだと思っています。)


スパルタするには、講師との信頼関係が必要不可欠です。


ですから、当時の生徒たちとは保護者の方々とも含めて、かなり強い信頼関係で結ばれていたような気がします。


特に出来が悪くて叱っていた生徒ほど、よくこの塾に遊びに来たものです。



時間が経つにつれて、成績の良くない生徒よりも、しだいに成績の良い生徒のほうが集まるようになりました。


それとともに私自身の気持ちも変化しました。


以前から、学年1番にこだわって生徒を指導していました。


学年最下位から学年1番になったら気持ちがいいだろうなと考えたからです。


通常不可能と思えるようなことにやりがいを感じていたのですが、いくら頑張っても20、30番くらいで成長が止まってしまいました。


私にはやる気があったのですが、生徒が満足してしまうからです。


背後には、保護者の方の満足もありました。


つまり、「それ以上の上昇志向がなくなる」ということです。


むしろ、「今の成績を守る」ことに気をとられやすくなり、学習の変化を望まなくなってしまうのです。


私はそれがどうしても不満でした。


「自分の情熱を思い切りぶつけて受け止めてくれる生徒がほしい」と心から思いました。


そんなある時、発想の転換をしました。


いままでは、それぞれのレベルに合わせた教材や教え方をしていました。


しかし、それでは基礎レベルをやったあと発展レベルをやることになるので、時間的に発展レベルをこなすことが大変になります。


発展レベルは、基礎に比べて難しいために時間がかかりやすく、質問の量が多くなります。


さらに、1時間に1問しか解けないこともあり、解いたとしても完全に理解するためには、さらなる反復練習が必要なために、面倒になったり、精神的に苦痛を伴いやすくなるため、どうしても最初のうちは心理的抵抗が強くなります。


だから、基礎に戻りたがり、難問を解こうとしない傾向が出てしまうのです。


それならば、「低学年のうちから発展的な問題に最初から数多く触れさせていくべきではないか」と私は考えました。


それには少なからず不安もありました。


「そんなことをしたら、みんな勉強するのが嫌になってしまうのではないだろうか?」


「生徒がみんなやめてしまったらどうしよう?」


そんな考えが頭に浮かびました。



いままで通りの教え方をしていけば、例年通りくらいの結果は出せるはず、でも、可能性があるなら、あえて挑戦してみるべきではないだろうか?


そう考えました。


それで思い切って、基礎的な教材のほかに、「これでもかというくらい難しい教材」を使うようにしました。


その気になった時に、手元に教材があればやれるのではないかと考えたからです。


あるいは、基礎が弱い生徒には不必要だったかもしれませんが、そのような生徒に平等にチャンスを与えておくことも大切だと思いました。


さらに、受験をより強く意識した授業を展開し、出来るだけ応用問題を解く機会を増やしました。


応用問題の経験値を増やすことにより、心理的な抵抗を少なくしようとしたわけです。


私が驚いたのは、最初のうちこそ抵抗が強く出たのですが、重要性を繰り返し説明していくうちに、生徒たちがそのような意識を持ち始め、高い順応性を示したことです。


なかには、電話帳のように分厚く一問一問が難しい問題集を面白がって解き始める生徒や、長文問題を誰よりも速く解いてそれを自慢する生徒も現れ始めました。


そして、いままでの経験からみて、一年かけても終わらないのではないかと思えるような質と量の問題集を、あっという間に終わらせてしまう生徒が出てきたときには、自分の不安は杞憂にすぎなかったと思えるほどでした。


もちろん、そのような問題に抵抗し続けた生徒もいました。しかし、一旦流れが出来て、主流派の生徒たちの成績が向上しているのを知ったとたん、ほとんどの生徒が考え方を改めてくれました。


そして、自分も負けまいとして、なんとか理解しようとした結果、全体として学力の底上げがなされるようになったのです。


このように、以前は、足元から固める学習をしていましたが、今は上を見つめて掴み取る学習をするように変わりました。