名もなき詩

塾長のひとりごと
Vol.2
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勇気を持て
私は大学時代に合唱をやっていたのですが、大学一年生のときコンサート前はうまくいくかどうか不安な気持ちになりました。


「もし、失敗したらどうしよう」「せっかく友達も来てくれているのにうまくいかなかったらチケット代が無駄になる」などと考えたものです。


そのとき指揮者の先生がこう教えてくれました。


「コンサートとは戦いなんだ。


コンサートとは観客やオーケストラと戦う場所なのだ。」


コンサートとは協力することによって生み出されると考えていた私には驚きの言葉でした。


そして、演奏会の日を迎えたわけですが、結局私はそのときの意味をつかむことができず、客観的に歌ってしまいました。


うまく表現できませんが、音符とかリズムとかいろんなことを考えすぎて歌ってしまったのです。


そのときの演奏会は大成功だったと思います。


後で、演奏会のテープを聴いたのですが、感動して涙がでました。


「自分がさめていた演奏会に感動する」というアイデンティティが喪失するような感覚を味わい、自分が「なぜあのときもっと歌えなかったのだろう」と後悔するはめとなりました。


大学四年のときにその悔しさを晴らすことができたと思います。


私はその演奏会にかけていました。


そのコンサートの成功を心から願い、ともすれば弱気になりがちな自分を奮い起こし、「くじけそうな弱い自分」と戦い続けることができたと思います。


そして、コンサートの日を迎えたとき、演奏会場にいるとき私は悟ったのです。


「失敗なんてありえない。


自分が誘った仲間と、自分が協力し合った仲間と歌い、そして、聴いてくれている観客はすべて私たちが連れてきた観客なのだ。


つまり、自分たちの歌や気持ちを分かろうとしてくれる人たちなのだ。


自分が歌ってきた全てを出したら、それで全てが伝わるのだ。」


「コンサートとはその場のことを指すのではなく、コンサートに至る過程で、どれだけ自分がコンサートしてきたか、その結果が歌になって出るのだ。」


そう、思ったとき心から歌えた気がしたのです。


それは不思議な体験でした。


コンサート会場の人たちの全てが理解できるような、歌っている仲間の気持ちが理解できるような気がしました。


演奏会は成功しました。


みんな私の周りに集まって泣いていました。


私は、「世界中の誰かがこの演奏会を批判したとしても、自分はこの演奏会が誇れる。


なぜなら、演奏会に至る過程での自分の生き方が誇れるから」と思いました。


ずいぶんと長い話になりましたが、私が言いたいのは、テストは結果なのだということです。


自分のそれまでの勉強に対する姿勢が「懸命」であるならば、失敗など気にする必要などないと思うのです。


失敗を恐れるあまり、自分がやってきた「過程」を忘れてしまってはいけません。


普段の力を出せればいいのです。


それ以上など出るはずもありませんし、期待するほうが間違っています。


確かに、平常心を保つのが難しいことは分かります。


でも、ちょっと考えてください。


何のために、勉強してきたのですか?


他人に対して恥じるような勉強をしてきたのですか?


それが分かるなら、堂々と胸を張って受験すればいいのです。


解けない問題を解くことは期待していません。


練習してきたことが出せればいいのです。


その練習を幾度となく積んできたはずです。


顔を上げて勇気を持って立ち向かってください。
長時間勉強のすすめ
人間が本当に集中できる時間は60分間のうち15分くらいだと思います。


しかし、長時間勉強できなければ学力向上は望めません。


私が常々言っているのは一日最低3時間ですが、一日5時間くらいやっている生徒は毎年必ず数名います。


「彼ら」は土日となると朝9時〜夜10時くらいまで勉強しています。


そういう生徒は当然結果もよくなります。


「彼ら」はなぜ5時間以上も勉強できるのでしょうか?


ひとつには意識の面があげられると思います。


「彼ら」は学習意欲が非常に高く、向上心が強いのです。


このような意識の高さは、保護者の方々の考え方の影響があるからだと思います。


例えば「うちの子は長時間集中できない」と考えているお母さんがいたとしましょう。


もちろんこれは冒頭で述べたように事実です。


しかし、「だから5時間勉強できない」ということはありません。


もちろん「5時間勉強して頭に入らない」ということもありません。


理由は後で述べるとして、もし、そういうお母さんがいたとしたら子どもはもちろん「5時間なんて勉強できない」と思い込むことでしょう。


それが先入観というものです。


以前、私は生徒の力量を見て「今このぐらいだからこのくらい伸びるかな」という見通しをたてて教えていました。


しかし、ある時「自分の考える限界が生徒の限界ではないか」と考えて、そのような見通しをたてずに教えるようにしたところ、驚くほど生徒達が成長することがわかりました。


つまり、「親や先生の考える限界=子ども達の限界」ということなのです。


実は子ども達には環境に順応する高い能力と柔軟性が備わっているのです。


ですから、「無理に決まっている」と決めつけずに「やらせてみること」も大切だと思います。


もちろん、新しい環境に対しては慣れるまでにしばらく時間がかかることでしょう、精神的にくじけそうになるかもしれません。


大切なのは、そのときに「やっぱり無理だからやめなさい」と直ぐに結論を出さずに、「簡単にあきらめずに頑張りなさい」と励ませるかどうかということです。


大人は自分を基準に物事を考えますから、自分ができないことは子どももできないと決めつけてしまっている場合があります。


意識の高い生徒達の場合、たいていは保護者の方々も非常に意識が高く、「一度決めたことは簡単にあきらめず、限界をつくらない」という方が多いと思います。


もうひとつは体力です。これはもちろん肉体的な体力もありますが、精神的な体力もあると思います。


部活で鍛えたからといって長時間勉強できるわけではありません。


特に入試問題は、やっかいな難問に出くわすことが多いので、そういう精神的にストレスのたまる問題を長時間やっていけば、ふつうは誰だって嫌になるものなのです。


ところが、「彼ら」は全く気にしません。


それどころか、むしろ難問を楽しむ様子さえあります。


頭がいいからでしょうか?


いいえ、難問を気にしないから頭がいいのです。


私はこれを「鈍感」と呼んでいます。


いろんなことを気にせず「鈍感」であることが、勉強では非常に重要な素質のひとつなのです。


「鈍感」な彼らは時間を気にしません、隣の人が何をしていても気にしません、雪が降っても、雨が降っても気にしません、だから、もちろん、難問は気にしないわけです。


それでは「鈍感」は生まれついてのものなのでしょうか?


私は「鈍感」は養えるものであると考えています。


成績の悪い生徒はコンプレックスを持っている場合があります。


コンプレックスが原因の場合、それを取り払うように指導すると、ほとんどの生徒は成績が向上していきます。


例えば、「私はお兄ちゃんほど頭よくない」という生徒に「君は頭がよくないのではなく勉強していないから結果が出ていないだけだ、お兄ちゃんなんか気にするな」と言っていたら、いつの間にか成績が向上していきました。


また、「英語が嫌いだ」という生徒に「アメリカ人は幼稚園児でも英語ができる。英語は頭ではなく経験で学習できるのだ」と指導したら、中1のとき30点だった英語が入試で90点になりました。(余談ですが、後日、この生徒に「英語は好きか」と尋ねたら「嫌いじゃない」と答えました。)


食わず嫌いの生徒に、とりあえず食べてみてはじめて味がわかると指導するわけです。


たったこれだけで、コンプレックスはしだいに消え去り、「鈍感」になっていくのです。


「鈍感」が育っていくと、しだいにコンプレックスを克服した自分を認識することができるようになり、これがいわば「人間的成長」を実感するのだと思います。


このとき、生徒達はいままでにない喜びを感じ、この喜びをもっと経験したいと思い、もっと困難を克服したいと願うようになるのではないでしょうか。


だから、「彼ら」は難問を楽しむのだと思います。



さらに、目標ということがあげられます。


言うまでもない事ですが、目標が高いからこそ努力しても苦にならないわけです。


ところが、目標に向かうときのエネルギーには2種類あると思っています。


ひとつは、純粋に「看護師になりたい」とか「大学に行きたい」とか自分の将来のために必要な知識を求めるために、高校に行くというエネルギーです。


これを私は「正のエネルギー」と名づけています。


「自分をより高いレベルに引き上げる」という考えが根底にあるわけです。


もうひとつは、「彼氏と同じ学校に行きたい」とか「高校行って遊びたい」とか「制服がかわいい」というような、自分のレベルを向上させることが本来の目的ではない場合です。


これを私は「負のエネルギー」と名づけています。


困ったことに、「負のエネルギー」が強くても勉強はできます。


しかし、見かけ上は一生懸命やっているように見えても、根底に自分をレベルアップするという考えがないので、時間はかけますが成果は思うように出ません。


肉体的な疲労が勉強であると勘違いしているからです。


そして、一般的に「負のエネルギー」の強い人たちは、結果の出ないことを他人のせいにすることが多いようです。


もちろん、入試でもいい結果は得られません。


対して「正のエネルギー」の持ち主は、あとからあとからエネルギーが沸いてきます。


よく「砂漠に水」と言いますが、求めているからこそ、まるで砂漠に水をまくようにたくさんのことをあっという間に吸収できるわけです。


まさに「一をきいて十を知る」状態です。


だから、「彼ら」は長時間勉強しても吸収するエネルギーが沸いてくるわけです。


これが「5時間勉強しても頭に入る」秘訣です。


たいていは、どの生徒も「正のエネルギー」も「負のエネルギー」も持っています。


しかし、「正のエネルギー」が「負のエネルギー」に打ち勝たないと、つまり、自分の中の葛藤に勝利しないと長時間勉強での成果は得られないと思います。


それでは、15分しか集中できないのに、長時間勉強するためにはどうしたらいいのでしょうか?


具体的に考えてみたいと思います。


私は次のことを毎年指導しています。


〃彁擦念纏擦六箸錣塞ず筆算でやること→暗算をすると直ぐに疲れて最後までもたないし、疲れてミスが増えるとやる気がなくなる。


漢字や単語や語句は手で覚えること→とにかく、頭は最小のエネルギー消費量で済ませるためには体を使うことが一番いい。


声を出して覚えるのもよい。


但し、周りに迷惑はかけないように。


J拔するにあたっては、最初に必ず一日の計画をたてること→計画のない勉強は無益。


三日はもっても長くはもたない。


なぜなら、最後は時間との戦いになるのに、最も大切な入試直前の時期に、このくらいやればここまでできるという「計画の読み」を育てることができなくなるから。


ぐ貽のラストに頭の疲れる問題は持ってこないこと→頭が回転しすぎると、冴え過ぎて眠れなくなり翌日に影響の出る場合がある。


ラストは漢字・単語・語句・計算などがよい。


ヌ簑蠅魏鬚ときにダイナミクスをつけること→速く読んだり、遅く読んだり、さっと読んだり、じっくり読んだり。スピードやウェイトに変化をつけて学習するとよい。


スピードやウェイトを自由自在にあやつれるように訓練すると、頭をふだんはあまり使わず、ここぞというときにフル稼働して使うことが可能になる。


κ拔はだらだらやること→長時間勉強には「集中しすぎないこと」が大切な要素。


最初、頑張りすぎるとラストまでもたなくなる。


Г錣らないことは5分で見切りをつけること→こだわりすぎると、頭が疲れるばかりで効果的ではない。


わからないことは質問すればよい。


そのために塾がある。


頭で考えず手で考えること→とくに数学の図形や関数は、問題集の図に頼らずに、自分で図を書く習慣をつけること。


文章はポイントと思ったところに線を引きながら読むこと→とにかく体を使うこと。


なるべく間違えないこと→間違えると疲れるのが早くなる。


そのためには、○つけをこまめに実行すること。


特に新しいところや苦手なところは3〜5問で1回くらいのペースで。


 銑が実践できると、10時間でも可能だと思います。


頭のエネルギー消費量をできるだけ抑えて学習することをおぼえればいいわけです。


これが出来るようになると入試でも効果があると思います。


なぜなら、入試は50分×5科目=4時間10分ですね。


ということは、4時間10分バランスよくエネルギーを使い切る練習が必要なわけです。


実際には、緊張してアドレナリンが出すぎて、前半飛ばしすぎの可能性もあるわけですから、5〜8時間もつスタミナをつけなければ受験では成功しないと思うからです。


いかかでしょうか?


長時間勉強はなぜできるのか?


長時間勉強がなぜ効果的なのか?


おわかりいただけたでしょうか?


さしあたり、以下のことをチェックされてみてはいかがでしょう。


^媼韻箸靴董峺続Α廚鬚發辰討い覆い


◆崙澳供廚どうか


「正のエネルギー」が強いかどうか


これがクリアーできたら、さあ、あなたも「彼ら」の仲間入り。
自分の心に負けないこと
「マトリクス」という映画の1シーンにネオがビルの屋上からジャンプする場面があり、私はその中の、「飛ぼうと思えば飛べるんだ。心が死ぬから死ぬんだ。」というせりふがとても気に入っています。


まさにこの言葉は、受験勉強をする生徒たちにも当てはまる、いや、人生の全てに当てはまる言葉なのではないでしょうか。


授業中に、「この問題難しい」と嘆く生徒がいて、私はこの話をしました。


「解けないのはスキルが足りないからであり、つまり経験不足ということだ。


最初から解ける生徒はいない。


大切なのはそういう環境に常に身を置いて、入試問題に慣れることなのだ。


難問を常に考えようとする訓練を継続することにより、今は解けなくとも、1ヶ月後、2ヵ月後、3ヵ月後に解ければいいわけであって、今はそのための準備期間ということなのだ。


気をつけなければならないのは、難問を解くときに思考を閉ざしてしまったり、あきらめてしまわないことだ。


『解けると思えば解けるんだ。心が解けないと思うから解けなくなるんだ。』


もし、解けないときはどうしたらいいか?質問すればいいに決まっているじゃないか。そのために我々はいるんだ。」と。


難問というのは、何段階か(たいていは3段階程度)の組み合わせであり、教科書レベルでは1段階かせいぜい2段階くらいしか練習していないため解けないのです。


設問全体を把握し、方針を決定し、実行に移すという訓練があまりにも少ないために、つまり経験が少ないために、「解けないものだ」と思い込んでしまう生徒が多いのです。


対策として経験を積めば徐々に解決していくのですが、その経験の1回めと言うのが最も厄介で、心理的な抵抗が大きいのです。


たいていの生徒はここで嫌になってしまうのです。


自宅学習して最も泥沼にはまりやすいのがこの部分です。


ですから、自宅学習する場合、難問ははずして簡単なものだけやっているか、意味も分からず答えだけ丸写ししてわかった気になっているか、あるいは、一度は理解したとしても、二度目になると考えるのがめんどうになって(難問は理解に時間がかかるし、とても疲れるので)きちんと理解しようとしなかったりしてしまいがちなのです。


しかし、難問を解かなければ学力の向上はありえません。


「苦しみ=成長」なのです。


精神的に負荷の大きい問題に立ち向かっていくことが学力向上に直結するのです。


そこで、最初の話題に戻りますが、難問に立ち向かうためには、自分の心に負けてしまってはだめなのです。


難問を「絶対理解できる。今は解けなくても、いずれは必ず自分の力で解いてみせる」という心構えをしなければなりません。


「解こう」と思えば、いつかは解けるようになるのです。


「解けない」と思っていたらいつまでたっても解けるようにはなりません。


よく言われることですが、大切なのは「自分を信じること」です。


すなわち、「自分はきっと解ける」あるいは「自分はきっと解けるようになる」と思い込むことです。


そう信じることが、いつか自分を解けるようにしてくれる力に変わるのです。


残念ながら、入試の問題が自分のレベルに降りてきてくれることはありません。


自分が入試のレベルに近づいていかなければならないのです。


そのためにもう一度この言葉を贈ります。


『解けると思えば解けるんだ。心が解けないと思うから解けなくなるんだ。』


いい言葉ですね。
どうしたらいいかわからない
成績が伸び悩んでいるときによく耳にする言葉です。


私も以前こんなことをよく考えました。


経験がなく、あまりにも未熟であったために対処の仕方に迷ってしまうからでした。


そんなときに大学の先輩からこんなことを言われました。


「どうしたらいいかわからないということを君は言い訳にしてしまっている。


よく考えれば何をすればいいかわかってくるはずだ。」


その時から、私の緊急事態に対する対処の仕方は劇的な変貌を遂げたと思います。


「どうしたらいいかわからない」ということを言うのは簡単なことです。


しかし、理想と現実のギャップに気がついたとき、現実逃避してつい誰かに頼りたくなるのです。


そして、心の中では「なすべきこと」が本当は何なのかを理解していながら、「もっと楽な方法はないのか」と考えたくなり、ほとんど無意識のうちに「なすべきこと」にヴェールをかけて見えなくしてしまうのではないでしょうか。


そして、「わたしは今悩んでるんだから」という心の状態に落ち着いてしまい、積極的な心の状態に戻りたがらなくなるのではないかと思います。


つまり、


「どうしたらいいかわからない」=「誰か助けて」=「助けを待つ」
という心の状態ではないかと思います。


しかし、何もしないのでは、どこからともなく「正義の味方」や「白馬の王子様」は絶対現れないのではないでしょうか?


何もしないで待っている人に他の人は魅力を感じません。


現状を打破しようと懸命になって努力し、決して弱音を吐こうとしない人には魅力を感じ、「何か力になってあげたい」と思うものです。


重荷を持って坂道を登るのが面倒なとき、座って何もしないで「荷物もって」と頼むなら、誰も相手にしてくれません。


しかし、汗を流してそれでも一生懸命に荷物を運ぼうとするなら、人はその姿に感動し協力を惜しまないと思います。


今、私は「どうしたらいいかわからない」ような場面では、その解決策を考えるのをできるだけ楽しもうとしています。


「これが自分の限界なら、これを解決したら自分がもっとできるようになる。この問題はきっとできる。何かあるはずだ。」と思うようにしているのです。


そして、実際、ほとんどは解決します。


人間には物事を分析し、工夫する力が与えられているのです。それを生かすことが自分を生かすことだと思います。


「ピンチは最大のチャンス」なのです。


それをのりきれば、さらにひとまわり大きくなれるチャンスなのです。


だからこそ、「どうしたらいいかわからない」という心の状態を「今わたしは壁にぶつかっているんだな」と捉え、「よーし、このパズルを絶対解いてやる」と決めて、その解決法を考えるのを楽しんでくれたらいいと思います。
懸命
「懸命」という言葉があります。


「一生懸命頑張る」などと言いますが、受験生からこの言葉を聞くと「本気でそう思っているのか」と考えてしまいます。


「懸命」という言葉は「命を懸ける」という意味です。


私には、ほどんどの生徒の「一生懸命」という言葉が単なるお題目で薄っぺらな言葉に聞こえてきてしまいます。


経験の少ない生徒たちですから、よく意味を考えずに使っているのでしょう。


しかたないと思う反面、言葉を大切にしていないことが気になってしまいます。


つまり、「そういう生徒たちは人の言葉を真剣に聞いているのだろうか?」と思ってしまうわけです。


そういう生徒達が口にする「目標」も「実はアドバルーンに過ぎないのではないか?」と考えてしまいます。


いままで、私が出会った生徒たちの中で、「懸命」のレベルで勉強していた生徒は必ずしも多くはありません。


ほとんどの生徒は「頑張るから教えてほしい」と「宣言」はよくしますが、その実は「自分では何もしない。だから教えてほしい」という生徒があまりにも多いのです。


そして、決まって受験が近づいてきたころ、突然「やる気」を宣言しだして、私の休みの日まで返上を要求してきます。


大変虫のいい話だと思わざるを得ません。


合格した暁にはすっかり勉強を忘れ遊びほうける毎日で当然成績は下降します。


そして、またまた成績がやばくなった頃、突然「やる気」を宣言して塾にあらわれるのです。


いったい、彼らは何のために勉強しているのでしょう?


私の目には、「自分の意思ではなく、周りの環境に合わせて自分のポジションを決めている」としか映りません。


だから、「頑張る」という言葉も空しく響くわけです。


「懸命」のレベルで勉強している生徒は、集団の中のおよそ1割くらいだと思います。


後の生徒たちは、その生徒たちに引っ張られているだけにすぎません。


ということは、集団の中の1割で集団の価値は決まってくると考えても過言ではありません。


「懸命」か「懸命」でないかは、言葉ではなく「目」や「態度=オーラ」でわかります。


「懸命」に努力している生徒は「眼力」とでも呼ぶべき「魔力」を持っています。


そういう「真剣な眼差し」に、私も他の生徒たちもひきつけられ、休み時間になると不思議にそういう生徒の周りに人が集まってきます。


そして、その生徒の持つ不思議な「魔力」が人を感化させ、より高みへと引き上げる力を与えてくれるのです。


みんなその力がほしいのでしょう。


受験直前になると今日は休みたいと思っていても、なかなか休むことができません。


私も「懸命」な「目」を持つ生徒に引き寄せられてしまう一人なのです。


そして、気がつくと、そんな不思議な「魔力」を、他の生徒たちにも自分にも求めている自分に気がつきます。


「懸命」でない諸君。


コバンザメのように他人の力に頼るのではなく、君たちが自分の力でエネルギーを出してほしい。


そして、朝起きたとき、自分の「目」を見たまえ。


それが、自分でも不思議な「魔力」を持っていると感じることができるかどうかを。
勉強と友情
受験勉強というものは孤独なものだと思います。


人気のある高校は倍率が高く、必ず不合格者が出ます。


例えば倍率1.5倍なら、定員200人に対して300人の応募があるわけですから、実に100人が不合格となるわけです。


誰もが友人と共に合格したいと思う反面、自分が不合格にはなりたくないという恐れも同時に持ち合わせています。


したがって、「同じ高校を受験する友達=強力なライバル」という矛盾した構図が出来上がります。


例えば、自分の成績が向上したとします。


それを友達に言ったとして、友達は喜んでくれるでしょうか?


言葉では「よかったね」と言ったとしても、内心はあせりや不安がでてきて素直に喜んでくれないのではないかと思います。


私もかつて同じような思いをしたことがありました。


高校生の時のことです。


成績がいまひとつだった私は、夏休みに猛勉強をしました。


そうすると努力に比例して成績が良くなってきました。


当時の友達はなかなか成績が伸びずに、「あの先生の教え方が悪いんだ」とか、「俺は大器晩成型なんだ」とか言っていました。


しかし、「遊びに行こう、よく遊びよく学べだ」、「ソフトボールをしよう、受験には体力も必要だ」、「映画を見に行こう、社会勉強も必要だ」などとよく誘ってきましたので、実態としては勉強を本気でやっていたとは言えないと思います。


私は「今日勉強するから」と断ったわけですが、そしたら「お前はつき合いにくくなった」、「友達を大切にしていない」などと、ずいぶんひどい言葉をかけられました。


私はそのことで、「自分はひどい人間なのだろうか」と真面目に落ち込んだものです。


そんなとき、ある成績のいい人に声をかけられました。


「一緒に勉強しないか?」


その人は、猛勉強する以前の自分にとっては雲の上の人で、別世界の人だと思うくらい成績がかけはなれた存在でした。


そんな人から「一緒に勉強しよう」と誘われたのです。


私は、その人と仲良くなり、一生懸命勉強しました。


勉強しているときいろいろなことを彼に教わりました。


難しくて手の出ない問題が出てくると、「こんなの入試に出ないよな」と言ったら、彼は「そういうのを手抜きしちゃ駄目だよ。みんなが出来ないところが出来るから成績が伸びるんだ」と言いました。


『だから成績がいいのか』と内心すごく感動しました。


そして、彼と勉強していくうちに、だんだん「一生懸命勉強していけば彼のような大人になれるかもしれない」と考えるようになりました。


そのころには、以前の友達とはほとんど話もしないようになっていました。


物事についての価値観が違うために、つきあっていても自分にプラスにならないと思ったからです。


このことによって私が理解したことは二つです。


友達には「お友達」と「親友」の2種類いること。


「一生懸命やれば何かある。しかし、一生懸命やらないと何もない」ということです。


「朱に交われば赤くなる」というように、レベルの高い集団にいると考え方が感化されて学習に関する意識が高くなります。


しかし、レベルの低い集団にいると考え方が低くなり学習意欲がなくなるというわけです。


そして、これとは逆の、「勉強して自分のレベルアップを果たすことによって、集団の属性が変化し、それまでの集団に所属しにくくなり、新たな集団への帰属性が高まる」という命題も成り立つと思います。


私が体験したのはまさにそのことだったのだと思います。


わかりやすく言い換えると、成績向上するにしたがって、つきあっていた友人たちのレベルに変化が生じない場合、「ねたみ」や「意識のずれ」を感じるようになります。


そして、それまで、自分のことを意識していなかった成績のよい生徒達が、自分のことを認めるようになり仲間に加えようとします。


そのため必然的にグループの移動が起こるわけです。


成績が変わることによってつきあう集団が変わります。


どうしてもその集団の中にい続けようとすると、「遊びに行こう」と足を引っ張られたり、「ガリ勉していて楽しいのか」などと嫌な思いを味わうことになります。


私は、そういう遊び友達はしょせん「お友達」でしかなく、自称「友達」を語る「敵」でしかないという認識に変わりました。


そういう友達はいつでもつくることが出来るし、本気で相手にするべきでないと思っています。


ただし、表だってことを荒立てると攻撃してきたりして厄介なので、適当につきあっていくのが良いと思います。


例えは良くないですが、「表面上のつきあい」で済ませておくということです。


そして、最も大切な友人というのが、実は自分を啓蒙し叱咤する「ライバル」であり、この「高いレベルで競ってくれるライバル=自分のレベルアップに必要な親友」であると確信しています。


さて、「一生懸命やれば何かある。しかし、一生懸命やらないと何もない」について面白い話があります。


私はこれを以前の友人に話しました。


そうするとある日別の友人から、「勉強していなかった友人がすごく一生懸命勉強するようになったらしい。しかも『一生懸命やれば何かある。しかし、一生懸命やらないと何もない』などと言っている。あいつは変わった」と教えてもらったのです。


私はびっくりしました。


しかし、同時にうれしくなり、また、「自分の言葉の責任を取るために一生懸命やらなければならない」という気持ちになりました。


では、現実に何かあったのでしょうか?


私はあったと思っています。


一生懸命やることによって、はじめて自分の精神的な弱さと戦うことを覚えました。


そして、いままで辛いこと嫌なことから逃げ回っていただけの自分が認識できるようになり、自分の克服しなければならない課題や本当に学ばなければならないことがわかってきたからです。


これがルソーの言う「第二の誕生」であり、ソクラテスの言う「無知の知」なのではないか。


教科書の言葉が実感として理解できた気がした瞬間でした。


ほんのちょっと大人になれたような気がしたわけです。


わかりにくいかもしれませんが、ものすごくうれしい瞬間でした。


誰にも理解できない、自分にしかわからない喜び、しかも、単なる「楽しさ」とは違うとてもレベルの高い「喜び」です。


つたない体験談を話しましたが、受験勉強するなら「友達」はとても強力なパートナーとなりうるのです。


同時に強力な障害になることもありえます。


大切なことは、「ライバルを大切にして一生懸命勉強する」ということです。


「ライバル」は敵ではありません。


「お友達」こそが敵なのです。


そのことに早く気がついてほしいと思います。


そして、自分にしか味わえない「第二の誕生」の感動を、ぜひ皆さんにも味わっていただきたいと思います。



● 「第二の誕生」というのは、自我が芽生えてきて「自分の内側にあるもう一人の自分」を意識するようになることから始まります。


自我ができてくると自分についての認識が深まるとともに自分の外の世界をもあらたな視点で見ることができるようになっていきます。


そうなると、自分をとりまく世界=社会 の存在が判り、その社会の中の一員として自分が存在していることが判ります。こうして「第2の誕生」となります。


● 「無知の知」とはソクラテスが言った次の言葉です。

私は、自分が”知らない”というたった一つのことを知っている。 自分は『知恵を愛する人(フィロソフォス)』であり、本当の認識を手に入れようといつも心掛けている。
なぜ勉強するのか?
「なぜ勉強するのか?」というのは最も基本的な問いかけで、さまざま答えがあることだろうと思います。


「高校に合格するため」、


「日本は学歴社会だから頭がよくないと出世できないから」、


「いい大学に入ればいい会社に就職できるから」、


「国民の義務だから」という人もいるでしょう。


実は私自身、「なぜ学ぶのか?」という問題にぶつかり、悩み、さまざまの本を読んだりして答えを見つけようとした時期がありました。


両親や先生に尋ねてみても、「屁理屈言わないで勉強しなさい」と言われるだけで、明確な答えは返ってきませんでした。


そこでとことん考えてみることにしたのです。


その過程で出た最初の答えは「生きるために必要だから」でした。


世の中の人々は必ずしも善人ばかりではありません。


人をだましたり傷つけたり・・・。


そのような弱肉強食の世界で生きていくためには、自分になんらかの武器が必要なのではないかと考えました。


もちろんスポーツができることも武器の一つでしょう。


しかしプロで生きていける人はごく少数であり、自分は勉強して武器を身につけるしかないと考えて勉強してみることにしたのです。


中学生の時でした。




次に、大学受験の時に私は猛勉強をしたのですが、成績が向上すればするほど周りが自分をライバル視するようになり、孤独感を味わったことがありました。


入試が近づくにつれ不安もつのり、とうとう「なぜこのような思いをして勉強するのか」を考えないと勉強が手につかない状態に陥りました。


そこで答えのヒントを探そうとたくさんの本を読みました。


その中で見つけた次の答えが「自分を知りたい」ということでした。


自分は、自分でありながら、自分の思うように感情や意思を操ることができません。


勉強しようと思っても勉強できなかったり、頭ではわかっていても思うような行動をおこすことができない・・・そんな自分を鍛え、見直すために、勉強して大学に行き、さまざまの人の考えに触れてみたいと考えたのです。




そして今、私の中にある答えは「世の中を知りたい」ということです。


人を知り己を知れば、さまざまのことができるように思います。


社会がいまどういう状況で、どんなことが必要とされ、そしてその中で自分が何をすればいいのか、何ができるのかを考えるためには、さまざまの知識や知恵が必要です。




ところで、私が塾の先生として子どもたちに対して「学ぶ理由」としてあげているのは「受験は発達課題である」というものです。


もうすでに存在している受験勉強をどう捉えるかは、もはや個人的な問題です。


「つまらない」と捉えることもできるでしょう。


しかし、考え方ひとつで、これを人間的成長の一つの課題として捉えることもできるはずです。


多くの人は受験勉強を辛く厳しいものと考えていると思います。


私は、その一般的常識を覆し、この受験勉強を通じて子どもたちの精神的な成長を成し遂げたいと考えているわけです。


「自分が精神的に成長した」という実感をもつことは、人間にとって大きな喜びのひとつであると思います。


そのことこそ、かけがえの無い財産として残るのではないかと考えているのです。
常に変化し続けることは大切だと思います。


私はいつも変化を求めています。


しかし、常に変化し続けることは大変なことです。


精神的にも物理的にも「壁」が立ちはだかります。


まず、「精神的な壁」ですが、人間というものは、一度ある程度のところに落ち着いてしまうとそこからなかなか変化しようという気持ちになれません。


具体的には、一度身についた勉強の方法というものを変えようとはしないものです。


家庭学習が1時間の生徒は、よほどのきっかけがないと3〜4時間やろうという気持ちになれないものです。


また、「物理的な壁」ですが、変化しようと思うと先立つものとしてお金がかかりやすい傾向にあります。


そのために、変化することをためらってしまいチャンスを逃すということもあるでしょう。


例として、勉強しようと考えるとノート・消しゴム・鉛筆・赤ペン・問題集の金額は必要経費として必ずかかってきます。


積極的に勉強しようとすればするほど必要経費の金額は大きくなります。


つまり、「積極的に勉強すること」=「お金がかかること」と言って過言ではありません。


この金額を減らすためには工夫するしかないのですが、中学生にはなかなか難しいのではないかと思います。


というのは、ノート代をケチって細かい字を書いているために、かえって何を書いているかわからなくなり、自分の首を絞めてしまっている生徒をよく見かけるからです。


「勉強すること」=「お金のかかること」と割り切るしかないのではないでしょうか。



壁を感じたとき、迷ってしまったときは「離」を意識すると良いと思います。


「離」とは、ある特定の考えに縛られず、一度それを切り離して、物事を客観的に見つめることです。


そうすると自分がよく見えてきます。


そして、自分に何が足りないか、何をすべきかがしだいに明らかになってくるはずです。


そして、少しずつ変化させていくのです。



変化することが特別なことではなく、変化するのが当たり前だと言う認識を持つことによって、勉強に対する意識も向上してくれるのではないかと思います。


難しい問題や苦手な問題に取り組もうとすると、とたんに身動きや思考が止まってしまう生徒をよく見かけます。


理由は「よくわからないから」というのが大半です。


しかし、初めからよくわかっていたら勉強する必要などないのであって、誰でも最初は「よくわからない」のです。


大切なのはそれを毎日継続して練習していくことです。


そうすれば、しだいに「よくわかる」ようになっていくわけであり、それをいちいち「よくわからない、難しい、不安だ、めんどくさい」と気にしていたのではらちがあきません。


「わからない」問題をひとつひとつ「知る」ことによって学力は向上するわけですから、「そうなのか、またひとつ賢くなった」と考えて次に進んでいけばよいのです。



知らない問題や慣れていない問題を解いていくと必ず「不安」が出てきます。


そして、「自分にできるだろうか」、「無理じゃないのか」、「さっぱりわからない」という精神構造が「理解の邪魔」をし、「やる気を減退」させます。


そのときに必要なのは、そういう問題に対する精神的な対処の仕方を覚えることであり、「これは練習であるからだんだんわかっていけばいい」と割り切ることです


変化をしようと思ったら一時の精神的な不安に惑わされず、「大局観」を持って臨まなければいけません。
学習の階層
何年間かの模索の結果、集団で学んでいくことが個人の限界を突破するのに有効であるということがわかってきました。


集団の中では、たいてい「頑張る生徒」が1割、「頑張らない生徒」が1割いて、残りの8割は流れの速いほうについていく「中間層」という構造になっています。


この「頑張る生徒」と「頑張らない生徒」の綱引きで、「頑張る生徒」の力量の成長が、集団に大きなインパクトを与えるのです。


一旦流れができてくると「頑張る生徒」の数が増え始め、「頑張らない生徒」も動かざるを得なくなるという現象がおきてきます。


この状態が出来上がると「勉強が楽しく実りのある状態」になるのです。


それまでは、塾の先生が引っ張っていかねばなりません。


「頑張る生徒」は励まし、「頑張らない生徒」は叱り、「中間層」には目標を与え具体策を講じて、「頑張る生徒」へと変化させねばなりません。


各々の階層における特徴は、おそらく次のようなことであると思います。


【頑張る生徒】

この階層は、ほとんどの生徒が「目標」を持っています。


目標が高く具体的であればあるほど頑張る力が強い傾向があるようです。


つまり「夢」が生徒達を高いところに引き上げてくれるということです。


しかし、残念ながら、同学年でその高い志を理解できる生徒はごく少数であり、けっこう孤独であったり、「ねたみ」の対象になったりします。


「燕雀いづくんぞ鴻鵠の志を知らんや」(つばめやすずめのような小鳥に大きな鳥の気持ちがわからないように、小人物に大人物のひろく大きな気持ちはわからないものだ)ということです。


先頭を走り、目標とされる人間と言うのは、一般の人よりも困難な高い壁をのぼる必要があるので、ストレスもたまりやすいと思います。


したがって、人よりも精神的に「大人」でなければなりません。


未熟な心ではとうていその壁を越えることは困難だからです。


最も良いことは、高いレベルで競うことの出来る「ライバル」や「友人」にめぐり合うことです。



【中間層】


目標があまりはっきりしていないために、自分から積極的に行動することができません。


ですから、困難にぶつかると、すぐに悩んで動けなくなってしまいがちです。


したがって、その場合こまめに励ますことが必要になります。


目標がないので、現場の具体策をすぐ求めたがる傾向があります。


具体策を示すと動くことができるのですが、根本的な解決がなされたわけではないので、しばらく経つとまた悩んで動けなくなります。


そして、周りが本格的に動き出すと、自分もあせって行動し始めるということになります。


一般的にはこの階層の生徒が最も多いです。


「頑張る生徒」へのレベルアップを果たすなら、「目標」をもち勇気をだして行動に移らなければなりません。


【頑張らない生徒】


表面上は真面目であったり、とりあえず言うことはきくのですが、言葉とはうらはらに行動を見ると「頑張っていない」生徒達です。


隠れて怠ける傾向があるので、見つけ出すのに時間がかかります。


うそをつくのも得意なので、「家で勉強した」とか、「わかりました」というのですが、ほとんどあてになりません。


目標も口にするのですが、現実の行動とギャップがありすぎて、言葉に誠実さはみられません。


この階層の生徒は、たいてい「コンプレックス」をもっていて、「どうせやっても無駄だ」、「入れるところならどこでもいい」と心の中では考えています。


しかし、現実に言葉にすると怒られるので、表面上は「目標」を口にするわけです。


したがって、まず「コンプレックス」の解消から始めなくてはなりません。


そして、いやでも実際にやらせなくてはなりません。


「やってみてはじめてわかる」こともあるのです。


そして、実際にやらせてみて良かった場合、「頑張ろう」という気持ちが生まれます。駄目だった場合、「悔しい」という気持ちが生まれるはずです。これが次につながるエネルギーとなります。


ここで大切なのは「やらせるなら、中途半端ではなく徹底的にやらせること」です。


でないと、次につながるエネルギーは絶対に生まれません。


私は「頑張らない生徒」には、時期をみて、必ず一度は徹底的にやらせることにしています。


そこまでやるかというくらいのレベルです。


そうすると必ず、そのときの結果が良くても悪くても勉強する方向を向いてくれます。
二律背反
辞書によれば、『相等しい妥当性をもつ前提に立った二つの原理や推論が互いに矛盾し合うこと。』だそうです。


なにやら、難しげな言葉ですが、私はこれを次のように解釈しています。


この世の中は相反する二つのことがいつもせめぎあっているのだと思います。


戦争と平和、愛と憎しみ、友情と敵対などはその代表的な例であり、大なり小なり、私たちはいつもその二つの中で揺れ動き、葛藤しているのではないでしょうか。


ちなみに『葛藤』とは『二つ以上の対立する欲求が同時に働いて、そのいずれを選ぶか迷う状態。また、精神内部で、違った方向の力と力が衝突しあっている状態。』のことです。


ということは裏を返せば、「何かひとつのことをやろうとするときは常に逆の力を感じる」ということであり、ひいては、「何かひとつのことをやろうとするときは逆の力を意識しなければならない」と考えることもできるのではないでしょうか。


わかりやすい例として大学時代に合唱団でボイストレーニングを受けた時のことがあります。


「高い音を出そうと思うときは体重を下に感じることが大切だ」と教えられました。


高い音を出そうとすると体が伸び上がりそうになったり口が上を向いたりします。


しかし、それは逆効果であり、実際にはあごを引いて下を意識することにより高い音は出るのです。


また、「フォルテよりもピアニッシモを聴衆は聴いている」と言われてはっとしたこともありました。


なるほど、大きな音は聴こうとしなくても聞こえて来ますが、小さな音は集中しなければ聞こえません。


これらのことを考えると、勉強するときも「逆を意識する」必要が常にあるのではないでしょうか。


具体的には次のようなことがあげられます。


,茲蠡く解こうとするならば、あせらずに効果的に解く方法を常に考えて模索する必要がある。


難問を解こうとするならば、集中しすぎずに別の方法も考えてみる。


テストで高得点を取ろうと考えるならば、100点を取ろうとするよりは失点しないことを意識する。




それでは一つ一つ検証してみましょう。 



,茲蠡く解こうとするならば、あせらずに効果的に解く方法を常に考えて模索する必要がある。


数学に分配法則というのがあります。


これはa(b+c)=ab+acというものですが、
これを利用すれば、
2×2×3.14+4×4×3.14
=(4+16)×3.14
=20×3.14=62.8
と効果的に計算できます。


また、交換法則a×b×c=b×c×aというのもあって、
10.5×7×2
=10.5×2×7
=21×7=147と
あわてて計算するよりも速く正確に解けるように工夫できます。


これは一例ですが、この他にも、例えば実力テストで社会の点数が悪かったから闇雲に社会の勉強時間を増やすという対処の仕方をしているといった生徒をよくみかけますが、これでは一生懸命やっていても成果はあまり出てきません。


そもそも原因は何なのかをよく分析すべきだと思います。


テスト結果が悪かったのは、問題のレベルが高かったのか、弱点は地理なのか歴史なのか公民なのか、基本語句ができてないのか記述問題ができていないのか、時間配分に失敗したのか、当日の体調はどうだったのか、これらを細かく分析する必要があるのです。


一回点数が悪くなると自分の全てを否定してしまうような極端に弱気な生徒をよく見かけますが、これでは大海に釣り糸を垂れるようなもので、目的の魚を吊り上げることは難しいと思います。


基本的に生徒たちはまだまだ精神的に未熟なのです。


だからあせってしまい、自分のやってきたことの全てを否定してしまうのです。


これではいけません。


「やってきたことは必ず成果が現われてくる」とまず自分を信じて結果をよく分析し、「次に何をやればいいのか」を必ず考えるべきなのです。


もちろん、自分で分析できないときは塾に持ってきて下さい。


要は、よく言われることですが「急がば回れ」ということです。


元サッカーブラジル代表のドゥンガが言うには「頑張るということは、力まかせにやるのではなくて、そこにインテリジェンス(知性)を働かせることだ」そうです。


試合の大事な局面ほど、あせって「力まかせ」にプレーするのではなく、集中し「よく考えて」プレーしなければチャンスをものにできないのです。



難問を解こうとするならば、集中しすぎずに別の方法も考えてみる。


このことは以前も述べたことがあるのですが、難問を解くときに私は常に「離」を意識しています。


考えが行き詰まったときは、ひとつの考え方に固執せず、別の考え方がないかどうかもう一度問題を読み直してみるということです。


そうすると使っていない条件が見つかったり、三平方ではなく相似で解けたりすることがわかったりします。


また設問全体の構成をとらえ直してみるのも大切です。


例えば数学の難問というのは、大問中のいイ砲ていることが多いわけですが、その場合△鉢は、い鉢イ魏鬚ための誘導問題の可能性が極めて高いのです。


国語などについては、出題者の意図を考えてみることも、答えを導き出す重要な手がかりになります。


「なぜこのような問題を出しているのか、出題者はどんなことを知りたいのか」を考えて問題を解くクセをつけておくと、文章中には書かれていない、「出題者の意図」や「文章の行間」が読めるようになってくるはずです。



テストで高得点を取ろうと考えるならば、100点を取ろうとするよりは失点しないことを意識する。


記述問題や新傾向問題は未確定要素を充分に含んでいますから、大切なのは、「基本問題で失点しない」ということになります。


入試本番では、緊張感やあせりから実力を充分に発揮できない生徒もいますので、私は「80%〜90%の力で合格できる状態」を理想と考えています。


受験当日は何があっても不思議ではありません。


そのためには、たとえ「ミス」しても「大失敗」に至らないように訓練しておく必要があります。


特に数学においては、時間が足りなくなったら難問に時間をかけるより基本問題での失点が最も危険なので、見直しを徹底して確実に点を取りにいったほうがいいと思います。


難問は時間の余裕をみて考えるべきだと思います。


したがって数学が不得意科目ならば、まず「捨てる問題」を決めて取り組むことが大切です。


計算・確率・作図・角度は絶対点を取るべき分野、そして「捨てる問題」についは、大問3〜5の関数・図形のうち小問ぁ銑イ応用問題と相場が決まってますから、それを捨ててしまえばよいのです。1問4点としても5〜7問は捨てることができます。


これら 銑のことを実践すれば、確実に成果は出てくると思います。


「二律背反」を意識することによって、つまり、進んでいこうという気持ちの「逆」を意識することにより、幅広い物事の考え方が身についてくると思います。


このことは、上に述べただけでなく、あらゆる物事に対する考え方に応用できることだと思います。